世界史目線で日本史を見ると別角度の歴史が楽しめるとわかる。名著なり。




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著者は人気予備校の世界史の講師。
世界史目線で語られる日本史は、まさに目から鱗。
たのしいです。わくわくします。読んで良かったです。
もちろん、日本史と世界史の受験レベル程度の知識がないとわけがわかりません。

ここ数年、歴史ブームなのか通史を描いた世界史、日本史の本がたくさん出ている。
だが、どうしても気になる点が2つある。
・歴史を修正する流れ
・近隣諸国やアメリカに忖度し記述を意図的に削除するケース
これが気にいらない。歴史に思想を持ち込むなと思うのだ。

本書は、歴史を語るのに問題となる近現代史を外して、江戸時代で終わっている所が良い。
歴史修正の流れや、事実を忖度し削除するような、そういう本とは違うから安心できます。

歴史の本は古いと情報も古いので良くありません。というのも学問の進歩は爆発的に進歩しているからです。日本史だって例外じゃない。

日本人のルーツは?
という命題が昔からあり、柳田国男の海洋民族説。南の島から縄文人は流れて来た。江上波夫の騎馬民族説などの古い考え方は時代遅れです。

ミトコンドリア DNA を 遡っ て いけ ば、 母系 の 祖先 が どこ から 来 た のかが 特定 できる わけ です。

つまり、考古学の生物学のタッグです。

縄文 人 の 祖先 で ある D は、 従来 いわ れ て い た よう に 東南アジア から 島 伝い に やってき た のでは なく、 氷河時代 に 地続き だっ た シベリア 方面 から 日本列島( 当時 は 日本 半島) に 渡っ て き た の です。


縄文 人 と 大陸 から 渡来 し た 弥生 人 の 混血 が、 現代 の 日本人 で ある という「 混血 説」 が、 DNA 研究 によって 証明 さ れ た わけ です。


母系 の ミトコンドリア DNA から 見る かぎり、
1. 日本人 は「 北東 アジア 人」 の 一つ で ある。
2. アイヌ 人、 本土 日本人、 沖縄 人 は 同じ 系統 に 属す。
  という こと になり ます。

日本 の 温帯 ジャポニカ 米 が もつ RM 1-b 遺伝子 は、 長江 下流 域 に 存在 する が、 朝鮮半島 には 存在 し ない。 よって 水稲 は、 長江 下流 域 から 直接 伝来 し た。

ということもわかっていて、朝鮮半島から稲作が伝来したというのは事実ではないようです。


  ヨーロッパ が ゲル マン 人 の 移動 によって 民族大移動 の 暗黒時代 に 入っ た よう に、 東アジア も 魏 晋 南北朝 と 呼ば れる 暗黒時代 に 入っ た と いえ ます。 この「 東アジア 版 民族大移動」 が、 朝鮮半島 や 日本列島 に 影響したと言われています。


 歴史 教科書 から 消さ れ た「 三韓 征伐」というのがありますが、少なくとも日本人が半島に住んでいた。戦闘があったことは色々な資料に出ているようです。広開土王 の 碑文については、韓国・北朝鮮 の 学界 では「 高句麗 軍 が 海 を 渡っ て 倭 を 破っ た」 という 解釈 が 支持 さ れ て い ます が、 日本 側 には 高句麗 軍 が 襲来 し た という 記録 も、 考古学 的 証拠 も あり ませ ん。 と すれ ば、 半島 南部 に い た 倭人 が 高句麗 軍 を 迎え撃っ た こと になり ます。


 半島 南部 に 倭人 が 住ん で い た 考古学 的 な 証拠 として は、 韓国 の 南西 部 で 前方後円墳 が 発見 さ れ て い ます。 五 世紀末 の 雄略天皇 時代 から 六 世紀 初頭 にかけて の 小型 前方後円墳 が 十数 基 発見 さ れ て いる の です。 百済 領 だっ た この 地域 に、 倭人 の 有力者 が 存在 し た 裏づけ にも なる もの でしょ う。

 
 日本の皇室は万世一系と言われていますが 「 三輪 王朝( 崇 神) → 河内 王朝( 応神) → 越前 王朝( 継体)」と3つの交代劇があったみたいです。現在の皇室は最後のものです。ここにこだわっている人がいるようですが、先祖をたどると同じだから別に一緒だと思います。万世一系じゃなくてもいいですよ。

 大切なのは、それよりも何故、越の国の親族が呼ばれたかの理由だ。

越前 を 拠点 と する 継体天皇 が ヤマト の 大王 として 迎え られ た 背景 には、 大陸 から もたらさ れる 情報 や 交易 ルート の 権益 を もっ て い た こと などが 考え られ ます。

 聖徳太子の業績が教科書では派手に描かれていますが、当時の最高権力者は蘇我馬子ですから、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使 など業績は蘇我馬子と聖徳太子の二人の業績となります。なぜ、馬子が逆賊で手柄は太子だけになったかというと、『 日本書紀』 の編纂者の意図が働いている。当時の朝廷の実力者は藤原不比等。大化の改新で蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足の子。だから、蘇我氏は逆賊になる。

 壬申の乱の説明もおもしろかった。

 大化の改新で天下をとった天智天皇は親唐派(中国側)だった。朝鮮半島では、新羅(朝鮮)と唐(中国)か勢力争いをしていた。
 壬申の乱は、天智天皇の後継者争いとして弟と息子が戦った。息子方には旧勢力。弟の方には新興の地方勢力が味方したというのが通説なのだが・・・
 ここでも著者は世界史目線です。

  天智天皇 の 遺児 で ある 大友皇子 を 擁立 する「 親 唐 派」 勢力 と、 天智天皇 の 弟( 異説 あり) で「 親 新羅 派」 大海人皇子( 天武天皇) が 激突 し た の です。 これ を たんなる 皇位継承 争い と 見る と、 事 の 本質 を 見 誤り ます。   この 壬申 の 乱 で 勝利 を 収め、 大津宮 を 攻略 し て 大友皇子 を 自害 に 追い込ん だ 大海人皇子 が 即位 し( 天武天皇)、 唐 とは 絶縁 し て 新羅 との 関係 を 修復 し まし た。 この あと 天武、 持 統、 文武 の 三代 三十 年間、 遣唐使 は 中止 さ れ ます。

 なるほど、壬申の乱は唐と新羅の代理戦争という新しい視点。これには驚きました。

 ここまで見てくると、日本の歴史は中国、朝鮮の歴史と密接に関係しているのがわかる。
 臣下の礼をとるか、独立路線か。この二つの流れの中で右往左往しているのです。

 坂上田村麻呂の蝦夷討伐に代表されるような軍事行動は平安時代の初期になくなり、正規軍は事実上、この国からなくなります。そして、摂関政治に突入する。著者は、この平安時代の地方の様子を無政府状態と言っています。治安維持を目的に武家か発生していきます。これは唐の節度使という制度と似ていて、今の言葉で言うとアウトソーシング。軍事部門に特化した外部発注でしょうか?。そのような傭兵隊組織が武家に発展していくのです。

 古代 の 日本 は、 大唐 帝国 という 圧倒的 な パワー に 飲み込ま れ まい と、 もがき ながら 国家 形成 を 行ない まし た。   白村江 の 戦い( 六 六 三年) と 壬申 の 乱( 六 七 二 年) で 唐 への 政治的 従属関係( 冊封 関係) を 断絶 し、 遣唐使 の 廃止( 八 九 四 年) で 文化的 な 自立( 国風文化) を 達成 し まし た。



 そこで登場してくるのが平清盛。彼の父親は瀬戸内の海賊を手中に収め中国との貿易に目をつけた。それを国家規模で行おうとしたのが清盛です。日宋貿易を行い大量の宋銭を輸入し貨幣経済を日本に持ち込もうとした。夢は海洋国家建設です。しかし、その壮大な国家ビジョンを民族主義者の後白河法皇。そして、彼が迎え入れた源氏が駆逐した。それが源平の合戦です。

 商業 を 蔑視 する 農本主義 の 儒学 が 隋 唐 帝国 の イデオロギー で あり、 儒学 が 官僚 資格 試験 の 科挙 の 科目 と なっ た こと が、 帝国 の 性格 を 規定 し まし た。 それ は、 国家 が 市場 も 管理 しよ う と する 国家社会主義 で あり、 毛沢東 時代 の 中華人民共和国 と よく 似 た 体制 でし た。

 この農本主義は鎌倉幕府の考え方でもあったように思われます。かなり時代錯誤です。平清盛の政策とは真逆です。清盛が相手にいていた宋という国は市場経済を容認していた国家で、これが時代の流れでした。鎌倉幕府は農業中心、土地中心の社会です。御家人たちは一所懸命と言って、自分の土地を守るために生命をかけていました。

 そんな鎌倉幕府は経済政策の失敗で滅びます。
 幕府は元寇に勝利するも領土が増えたわけではなく、御家人たちの経済的な負担は増大し借金を余儀なくされた。それで幕府が行ったのが徳政令。つまり借金の踏み倒し。これにより御家人の信用はガタ落ち。商人たちは金を貸さなくなり御家人たちは破綻寸前にまで追い込まれた。これが幕府滅亡のきっかけです。
 
 次の室町幕府は貨幣経済政策を行うことになりました。
 足利義満という人は、日本国の独立よりも貿易の拡大を優先するグローバリストでした。
 明は鎖国をしている国です。貿易は朝貢という形になる。つまり、臣下に下るということ。
 古代から繰り返してきた。中国に対しての臣下の礼をとる。独立するの流れから言うと、また、臣下の礼をとる形に戻ったことになるが経済は発展しました。
 足利将軍家が嘉吉の乱以降、急速に力を失うと貿易の担い手は大内氏などの守護大名になっていき、応仁の乱の後は戦国時代になっていきます。

 この本で一番おもしろかった部分。つまり、私の知らなかった場面になります。
 豊臣秀吉はどうして伴天連追放令を出したのかです。

 火縄銃には硝石が必要でした。だから、秀吉は硝石の輸入の引換えにキリスト教の普及を認めていました。何故、秀吉は、この基本方針を撤回したのか?。その背景にはスペインの陰謀があったのだそうです。

 昔からヨーロッパでは、戦争に負けた人間を奴隷にする習慣があった。近世に入り大航海時代になるとポルトガルはアフリカ大陸に出るようになる。現地の人間に鉄砲を売る。その国が勢力を拡大。侵略した部族を捕虜とし奴隷とした。それをアメリカ大陸にポルトガル人が売却していた。
 映画などでは白人が黒人狩りをしていたと描写されているが、本書によると黒人が黒人を捕縛し奴隷として売却していたというのだ。ベニン王国、アシャンティ王国などの黒人国家がやっていたのだ。

 このポルトガルが編み出した奴隷貿易システムは、実は日本でも稼働していた。
 ・・・キリシタン大名は捕虜をポルトガル商人に売却していたのです。

教皇庁は、「神の敵」すなわち異教徒の奴隷化を承認していた。
イエズス会も黙認していた。
ポルトガル王が日本人奴隷の禁止の勅令を出していたのに守られていなかった


イエズス会が日本征服計画、さらにカトリック化した日本軍を使った中国征服計画を計画していたことについては、慶應義塾大学の高瀬弘一郎教授が「キリシタン時代の研究」で明らかにしています。

 複数の資料によって、このことが本書では明らかにされています。
 ちよっとびっくりな内容です。
 私は遠藤周作さんの小説とかを読んで、イエズス会宣教師とかに感動していたのですが、そんな陰で悪だくみがあったなんて・・・。
 
 秀吉の伴天連追放令は、頭がおかしくなってやったわけではなく、きちんとした理由があったからでした。

 日本人を奴隷って、ふざけんな馬鹿野郎です。
 それに加担していたのが日本のキリシタン大名で、キリスト教ですよね。
 これこそ教科書に載せるべき事実だと思いました。

 大阪夏の陣の後、大量の浪人は傭兵として海外で活躍し、色んな国に日本人町を作った。
 日本が鎖国政策を実施した理由は、秀吉と同じ日本人を奴隷として売り飛ばされるのを懸念したことと、この大量の海外で活躍する傭兵軍団が天下を乱すのではと考えたからではないかということでした。それと海外では、新興国のイギリスやオランダとポルトガル、スペインの戦闘が激化していて、そこに巻き込まれたくないという意図もあったのだと思います。


 簡単に面白かったところをまとめると、こんな感じですが・・・。
 きちんと根拠を示して論を展開していくので楽しい本でした。読んで損はないと思います。




2020 2/1
令和2年 17冊目