関西弁の本文訳はわかりやすく迫力がある。古典を、こんな形で読めることが嬉しい。




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「歎異抄」は、浄土真宗の開祖である親鸞の言葉を弟子の唯円が、後に歪められて伝えられているのを嘆き、それを正す為に書いたものと言われています。
原文は古典なので読みにくい。本書は関西弁で読みやすく訳されている。
30分程度で読めるというのもいい。
ただし、後の解説はボリュームがかなりある。本文より読むのに時間がかかった。

往生するには、自力と他力という2つの方法がある。
自力は、修行したり善行を積んだり。ようするに、仏に近づこうとする修行による方法だ。
でも、普通の人には不可能だから、他力という考え方がある。
この場合の他は、仏様であり、信じることで救われるということらしい。

浄土真宗の親鸞は「他力」の代表格だったのだが、死後、考え方が少し歪められたとのことである。
「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えると言う意味は、阿弥陀如来に帰依しますという意味なのだそうだ。
「南無」は帰依しますと訳される。

少し本文を引用し関西の訳文の雰囲気を紹介しよう。

アミダ(阿弥陀)はんの誓いの不思議な力に助けてもろて、極楽往生は、こりゃまちがいなしと信じて、「ナンマンダブツ(南無阿弥陀仏)、ナンマンダブツ(南無阿弥陀仏)と、よう、となえようと思う心が起こったときには、もうすでにおたすけにあずかり、アミダ(阿弥陀)はんにお引き受けいただき(もう)捨てられまへん。(=摂取不捨)という御利益にあずかっとるんや。

つまり、信じるだけで救われるということらしい。
わざわざ「自力」の修行は必要ない。
善人とか、悪人とか、年寄りとか、若いのとか、一切関係なく。大切なのは信じる気持ちの強さなのだそうだ。

仏教というと良いことをしたら極楽に行くというイメージだが、親鸞は「悪人正機説」というのを言っていて、悪人こそ救われるべきだと主張しているらしい。

ひたすら念仏を唱える人たちと、学問をしている人たちがもめているが、そんな内輪もめは意味がないと言っている。

  最近 は、 ひたすら「 ナンマンダブ」 を となえる 専修念仏 の グループ と、 学問 を する 聖道門 の グループ とが おっ て、 言い争い( = 法論) を くわだて た こと が あっ た のや けど、「 ワテ ら の やり方 の ほう が すぐれ とる、 お前 ら の ん は 劣っ とる」 なんぞ と いわ はる から、 法敵 も 出 て くる し、 教え を 謗る やつ も 出 て くる ん や。 これ は、 本当は、 自分 で 自分 たち の 教え の 首 を 絞め とる よう な もん や お ま へん か。


親鸞の元の教えを思い出せというのである。

ワテ ら みたい な もともと ゲス な 凡夫 で、 目 に 一丁字 も ない 無学 な もん が、 信じれ ば お 助け 下さる いう から、「 ああ、 ありがたい こっ ちゃ」 と 受け入れ たち ゅうことで、 これ は え えと この 生まれ の ひと には いやしい もん でも、 ワテ ら の ため には ありがたい 最高 の 教え な ん や。


親鸞没後の弟子たちの布教方針についても苦言を呈している。

念仏 道場 の 前 に 張り紙 し て、「 かくかく し かじ かの こと を し た もん は、 道場 へ 入る べから ず」 なんぞ という のは、 ひとえに 賢く、 善人 ぶっ て 精進 し て まっ せ、 という ポーズ を 示し とる だけで、 その 中味 は 噓 っ ぱちで、 スカスカ や。


親鸞の考えを信じきれない人がいる。

  口先 では「 願力 に おす がり し て ます」 いう ても、 心 の なか では「 そんなに 悪い やつ を 助け たる という 願 は フシギ で ありがたい こと や けど、 そ ない いう ても やっぱし、 善 え 奴 を きっと お 助け に なる ん や ない か」 と 思う て、 願力 を 疑う て、「 ひと まかせ( = 他力本願)」 に お 頼み する 心 を 欠い て、 片隅 の 浄土( = 辺地 の 浄土) にしか 生まれ へん こと は、 もっとも 嘆かわしく お 思い に なる はず の こと や。

なかなか、悪人が往生できるという考えは認めがたいものなのである。
良いことをする。だから極楽にいける。そういう偏見を捨てるべきだ。
その疑いが、あなたを片隅 の 浄土( = 辺地 の 浄土) に導いてしまうというのだ。
つまり、常識が信仰の邪魔をしているというのだ。


自分 で あれ これ 考え ない こと を、 自然 ち ゅうのや。 これ は すなわち「 ひと まかせ( = 他力本願)」 という こと や。

これは今の仏教にも通じる批判である。
お布施の多い少ないでは何も変化はないと本書は断言している。
つまり、あれは坊さんのエゴなのである。

  ホトケ はん や お寺 さん への お フセ が 多い 少ない で、 大きな ホトケ や 小 っ さい ホトケ に なる ん や いう のは、 こりゃ あ、 ケッタイ な 説 や。 誰 かが オモロイ こと でも いおう 思う て いい 出し た こと やろ。 まず、 ホトケ はん に 大きい の 小 っ さい の なんぞ、 そ ない な こと あら へん のや。


親鸞の元々の教えを、後になって歪めてしまったものがあった。
それは世間の常識(良いことをしたら極楽にいける)とか
坊さんのエゴ、お布施が多いと良い浄土にいける。
そんなの親鸞は言ってないと唯円は本書で言っているのである。

自分で修行して高みに達することができない庶民に
「他力」という方法で極楽に行く方法があると示した親鸞。
それは阿弥陀如来を信じることだった。
「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来に帰依しますという意味なのだ。
それを唱えるだけで、信じるだけで極楽にいける。
それが親鸞の教えであり、現代人にはちょっと嘘臭いが、死んだらどうなるのか?。
修行してない俺たちは地獄なのか?。
そういう不安から救済するという点では、良い教えだった。

親鸞の偉いところは、布施の多い少ないは関係ないとしたところにある。
人を幸せにするのが宗教の役目なのだから、それは合理的な考えである。
その基本方針を忘れて、平然と多額の金を要求してくる葬式仏教は、この元々の教えに逆行しているなと思った。

唯円が師匠の考えを歪める人間に腹をたてて、この書を書いたのは理解できる。
これは今の坊さんが読むべき本であり、そもそも宗教の目的は何なのかを考える必要があると思う。

2020 4/5
令和2年55冊目
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