少し説法臭いが、主張している内容はシンプルで、この複雑怪奇な世の中の道しるべになるかもしれないというような良い内容だった。


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京都の金閣寺と銀閣寺の住職さんだそうである。
ということは禅宗ですね。
二つの寺は、対照的な存在なだけに同じ人が住職なのに驚いた。

生きるヒントになる仏教のお話しだ。
話しは、シンプルで使用した言葉の出典も示してあるので、作者の個人的な意見ではなく
背景に仏教があるので、安心して読んでいけます。
多少、説教臭い部分があり、とっつきにくいが、理解できればいい話しばかりでした。

本書のモチーフは、執着心を手ばなすということだった。

釈尊 は、「 足る を 知る 者 は、 たとえ、 貧困 で あっ ても 心 が 満たさ れ て おり、 安らか で ある。 しかし、 足る を 知ら ない もの は、 どんなに 裕福 で あっ ても 心 が 満たさ れ ず、 常に 不安 で ある」 と 教え て くれ ます。

「これで十分」という謙虚さが大切で、そういう気持ちでいると、どんな困ったことになっても、貧乏になっても、心は平安でいられるということだった。

要は、 あらゆる 雑念 を 捨てる こと で 自ずから 道 は 開け て き ます。「 得る よりも、 先ず は 手 ば なす。 その こと で、 人生 は ラク になり、 いつの間にか、 幸せ を 手 に 入れる」

これを読んでてて、人生は「かたずけ」に似ているなと思った。昔、読んだ「人生がときめくかたずけの魔法」とも共通点みたいなものを感じた。物を捨てられないというのも執着心で、だからものが溢れて困る。人間の場合は、執着が増えて、それに支配されておかしくなる。

「そもそも、心というのは移ろっていくものだ」と住職は言う。

いま、 あなた が 囚われ て いる 何 か( それ が 喜び で あれ、 苦しみ で あれ) が あっ た として も、 決して それ は 永遠 の もの では あり ませ ん し、 それ に 囚われ、 執着 し ては いけ ませ ん。   一時 は、 集中 し、 夢中 に なる のも いい でしょ う が、 次 の 時 が くれ ば、 また 次 の 何 かに 心 を 向け て いく。   そんな しなやか な 生き方 を ぜひ 実践 し て 欲しい と 思い ます。

なるほど、これは真理である。だから、悲しい出来事も時間が経過したら風化していくし、楽しいことも色あせてくる。同じところにとどまって、過去をいつまでも引きずって生きても意味はない。それよりも今を大切に生きるのが大切だと住職は言っている。

「 紅炉 上 一点 雪」 と 書く の です が、 これ は 真っ赤 に 燃えさかっ た 暖炉 の 上 に、 一片 の 雪 が 舞い 落ちる と、 その 雪 は すぐ に 解け て 無くなっ て しまう という 意味 です。 人生 とは、 そんな はかない もの で ある という 教え です。 私 たち 人間 の 命 は もちろん、 この 世の中 に 存在 する すべて の もの が、 同じく はかない 存在 だ という こと です。 しかし、 ただ「 はかない」 と いう だけで なく、 その 一瞬 で 消え て しまう「 はかない 存在」 こそ が、 じつは とても 尊い もの なの だ という こと も 同時に 教え て いる の です。

人は死にゆく存在だからこそ、それまで一生懸命生きるのです。永遠に生命があるのなら、そうはいきません。「はかない存在」だからこそ尊いのです。

仏教には「動と静は同じものである」という思想がある。
動と思えるものが静であり、静と思えるものが動であるのと同じように
今「問題」だと思っていることに大きな意味があったり、こんなの関係ないと思っていることが関係があったりするかもしれない。

こだわり を 捨てれ ば、 すうっ と 肩 の 力 が 抜け、 自然体 で 物事 を 受けとめ られる よう になり、 これ までとは 違っ た 景色 が 見え て くる はず です。

つまり、心がニュートラルでないと、色眼鏡で世界を見ているようになってしまうかもしれないということなのだ。

ときどき、「やり終えた」と満足する瞬間がある。

その 頂点 と 思わ れる 場所 から、 さらに 一歩、 二歩 と 進ん で いく こと が 大切 で ある、 という 思想 が 禅 には あり ます。

百尺竿頭 進 一歩 という 言葉 が あり ます。 読ん で 字 の ごとく、 百 尺 の 竹竿 の 一番 先、 もう これ 以上 先 は ない という ところ から、 一歩、 二歩 と 進ん で いく、 という 意味 です。 安易 に「 頂上 に 到達 し た」 と 思い「 ちょっと 休も う」「 もう、 これ で 十分 だ」 などと 思っ ては いけ ない。 さらに 先 を 目指し、 精進 を 続け なけれ ば なら ない、 という 戒め が 込め られ た 言葉 です。

この考え方は、たくさんの自己啓発本でも書かれていますね。「満足するな」「さらに先がある」「その先に到達したものだけが成功する」などなど・・・。意味は違うが仏教でも「自己満足」は否定的なのでした。

喫茶去の話しは興味深かった。

お茶を飲むというごく日常の行為の中にこそ、本当の真実があるというのだ。
厳しい修行とか、難解な禅問答の中に、ものの本質というものの理解できる何かがあるわけではない。むしろ、それはお茶を飲むような日常の中にこそあるという話しだった。

無事是貴人という言葉がある。
本来の美しさというのは、何もしない、ありのままの姿にこそあるということだった。

何をもって豊かとするかの議論もおもしろい。
世俗的には、「豊かさ=お金持ち」である。
周知のごとく欲は際限ない。1億の金を手にしたら、次は10億、100億となっていく。それは地獄である。

どんな慎ましやかな暮らしをしていても「これで十分だ」という思いがあれば、心は落ち着き、平穏な日常を暮らすことができる。まさに「足るを知る」ということです。
本当の豊かさとは、目の前の物をありのままに受け止めて、それに満足し感謝する心を育てることだと住職は言っている。
それは物質だけでなく、他人からの評価や、与えられたポジションなどについても同じである。

ようするに、「豊かさ」とは、その人の心の中ということのようである。
心の持ちようなのである。
それを、どうとらえるかだ。

冷暖自知の話しもおもしろかった。
目の前に1杯の椀がある。その中の茶が冷たいのか熱いのかは飲まないとわからない。それを知るには自分で飲むしかない。
つまり、知識だけでは不十分であり、実践や経験を積み重ねた中から獲得するものもあるということだ。
とにかく、何でもやってみようということだ。

大道透長安という言葉がある。
仏法の道と言っても、そんな大層なものではなく、垣根の外にある単なる道にほかならないのだという考えだ。
何かやろうとすると、すぐに大きな方向転換、環境の変化とかが必要と考えてしまいがちだが、そんな必要はなくて、当たり前の日常の中で意識を変えるだけでもできるという教えだ。

仕事をやめて自分探しの旅に出る人とかがいるが、日常生活の中でもできるわけである。

何かを成すための道があるとすれば、それは今日という日をしっかりと生き、また、明日という日をきちんと迎えるということにほかなりません。どこかに特別な道があるのではなく、あなたの足下にあるその道(日常)こそが、一番大切な道・・・


XXのために学ぶという考えが浸透している。
受験に合格するため、資格試験に合格するため・・・
それを捨てろと夢窓国師は言っている。
「こうでなければならない」という決まりなどなく、生活すべてが修行なのである。その「修行してる」という意識も捨て去れと言っている。


一期一会、一生に一度だけ出会うという意味で、だから、その時間を大切にしろという意味です。
井伊直弼はお茶会で「これを最後と思いなさい」と言った。
つまり、その瞬間を大切にする。
もう、これが最後かもしれない。
そう思うと、その時間や相手とのかかわりが、とても特別な意味になってくる。
時間をルーティンワークみたいに機械的に過ごしている私には耳の痛い話です。

人生は、あっと言う間に終わってしまうものである。
だから、もっと、人生や命をしっかり見つめなさいとも言っている。

禅の教えの中で、とても大事なものの1つに「今という一瞬を生き切る」というものがあります。過去に執着するのでもなく、未来を不安がるのでもなく、「今、この時」を生き切る。それがとても大事という教えです。

禅には「万物は変化していく」という思想があります。
・・・どんなに喜ばしい状況であれ・・・心がふさぎこんでしまうような辛い状況であれ、決して長続きはしません。

「これでいい」「到達した」と思った瞬間に、堕落は始まるのです

人は誰でも「自分の人生」というドラマにおいては主人公です。

人生とはじつにおもしろいもので、何かを得ようとするときには、必ず何かを捨てなければならないし、何かを失っているときというのは、間違いなく何かを得ているものです。

私たちにとって「捨てる」は「拾う」は究極的に同じ行為なのです。「得る」と「失う」もまた同じです。

学校を卒業すると友達と別れることになり寂しい。だが、就職したら、また、そこで新しい友達や仲間ができる。そのように、人は常に水の流れのように変化し続けているということなのか?。

目の前にどんなに見事な松の木があったとしても、その存在に気づかなければ意味がありません。

その「価値」を理解する心が備わってなければならない。幸せはどこに転がっているのかわからない。
きちんと生きていなければ、それに気づけない。大切なことは目に見えないということなのかな。

日々是好日 という映画が同じモチーフです。
ぜひ、ごらんください。

2020 5/24
令和2年85冊目